2023年12月02日
連載が長くなりましたが、今回で最後になりますので、もう少しだけお付き合いください。
もう一度ホテル・コンティネンタルの火災の絵葉書に戻ります[図1-1]。火災前の様子では、ホテル・コンティネンタルの前に記念碑が立っているのがわかるでしょうか[図1-2]。これは《アンスパック記念碑》と呼ばれているもので、設置されたのは1897年のことでした[英文ウィキペディアによる。現在は市内の別の場所に移設]。つまり、火災前のホテル・コンティネンタルと記念碑が一緒に写っている場合、その写真の撮影時期は、記念碑の建立後で火災前、つまり1897-1901年頃に絞り込むことが可能になります。
[図1-1] [図1-2]
それはさて措き、この記念碑ですが、制作には複数の彫刻家が関わっていました。その中の一人に武石の最初の師匠で、武石滞在中に50代の若さで惜しくも亡くなったジュリアン・ディレンス[1849-1904]がいました。彼は、記念碑制作から遡ること20年以上前の若い時分に、ロダン同様にアンスパック大通りの建物を装飾するカリアティードを制作していたのです。その頃にディレンスはロダンと相知り、彼の制作現場にも出入りしていたことがわかっています。ロダンが安い賃仕事で苦労していた当時の思い出を、ディレンスは遥か極東の地からやってきた若い弟子に語って聞かせたこともあったのでした。
ディレンスの作品が写っている絵葉書がありますので、ご覧ください[図2-1]。この中にはディレンスのカリアティード作品[図2-2]に加え、細部を拡大することで、大通りの奥に《アンスパック記念碑》も微かに窺えます[図2-3]。
ロダンの作品も確認できますが、興味深いことに、ロダンのカリアティードがある建築2件のうち、銀行があった33-35番地の建物には、上層階に足場が組まれ何やら作業中の様子です[図2-4]。もしかすると、先の第4回目の拙稿(https://kinbi.pref.niigata.lg.jp/topics/column28/)で図4として紹介した絵葉書に見られた、上層階の文字看板[図3]の取り付けだったのかもしれない、というのは手前勝手な推論で、調査が至らず憶測を超えるものではありません。
[図2-1] [図2-2] [図2-3] [図2-4] [図3]
この絵葉書[図2-1]の撮影時期が武石滞在中に重なるのか不明ですが、この写真に見られるように、ディレンスとロダンの作品が共にアンスパック大通りで見られたことは、武石が到着した1902年でも変わりありません[今やロダンの作はありませんが、ディレンスのカリアティードは現存しています]。地図上でも位置関係を確認していただくべく、ネット上にあった1905年のベデカーの地図を加工して示すと次のようになります[図4]。水色の印はディレンスの作品があった場所、黄色はロダンのカリアティードがあったところになります。大通りの中央付近の証券取引所の中にもロダンのカリアティードはありましたし、二人の作以外にも様々な建築装飾をアンスパック大通りでは目にすることができました。彫刻家を目指す者ならば、作品研究を兼ねて散策するのに格好の場所だったのです。
[図4]
西欧彫刻を学ばんとする意気に溢れる日本の若者は、ブリュッセルの目抜き通りに立ち、同じ年頃に師匠が成しえた仕事を驚嘆と憧憬とが入り混じった眼差しでじっと見つめていたに違いありません。更に少し大通りを北に上り、師も尊敬する大彫刻家の不遇時代に残した偉大な業績を見上げては、その真髄をどうにかして掴み取ろうと真剣な面持ちで作品を凝視していたことでしょう。一方、30年近くも建物の上から街行く人々を眺め続けていたカリアティードたちは、不意に現れた見慣れない東洋人の青年の熱心な様子を物珍しそうに見守っていたかもしれません。そのような出会いがあったのかどうか、近代美術館のロビーにある3体は何も語ってはくれないのですが。[了]
(館長 桐原 浩)