学芸員コラム㉘ 120年前、ベルギーに留学した彫刻家・武石弘三郎が見ていたかもしれない、ブリュッセルの街並みとロダンの初期作品について(4)

2023年11月13日

 武石弘三郎が滞在していた20世紀初頭のブリュッセルの街並みを探す試みが難航する中、ようやく年代特定の手掛りとなる事例を見付けました。当時のホテル火災を伝えている絵葉書です[図1]。

[図1]

 ほぼ同角度同構図の写真を併置して、火災前のホテルの威容と、火の手が上がる凄惨な状況(炎や煙は加工か)とを比較して見せるこの絵葉書、図版下には「ブリュッセルのホテル・コンティネンタルの大火災、1901年10月14日」と記されています。当時の絵葉書は情報伝達の格好のメディアであり、目敏い業者は不幸な事故を逆手に取り、商機として製作販売していたのです。使用者が投函した際の消印は、1901年11月12日でした。
 この大火災では、空に聳えるピラミッド形の大屋根部分のみが燃え落ち、建物本体は正面を含め無事だったようです。というのも、これまでの拙稿で紹介したものを含め、多くの絵葉書にホテルの外観が変わらずに写り込んでいるからです。
 このホテルは、アンスパック大通りの北の端、通りと同様に旧市長の名を冠しているデ・ブルッケール広場に位置していました。なので、ロダンのカリアティードがあった銀行や隣接するル・グランド・ホテル等を写真に収めようとすると、大通りの先、画面奥の消失点に当たる位置にこのホテルが写り込むことになります。拙稿2回目で紹介した絵葉書を、改めてもう一度見ていただきましょう[図2-1]。遠方にうっすらとホテル・コンティネンタルが姿を見せています[図2-2]。大屋根がないため火災発生後の様子と判り、使用者の書き込んだ日付もありますので、撮影時期は、1901年10月14日以降1913年11月27日以前の約12年間と幾分か絞り込めます。

[図2-1] [図2-2]

 もう1点、火災後のホテル正面が画面奥に覗いている別の絵葉書をご覧ください[図3-1]。通信面ではなく画面側に切手が貼られており、消印が見えます。日付は1912年11月1日なので、図2の絵葉書の書込みより早いのですが、だからと言って、撮影時期も早いと言えないことはこれまで述べきたとおりです。構図がほぼ同じであるだけに、2点を併置して比較すると、街の隅々で違いが際立ちます。例えば、ロダンのカリアティードが写っている部分を拡大してみると、街灯の形が異なることに気づきます[図2-3、図3-2]。高さや先端の灯火部の形状が異なることに加え、支柱中程の灯火の有無など、幾つかの違いを指摘できます。また、カリアティードたちが支えるバルコニーに見えるル・ファール社の名称表示も、片方では消えているように見えます。

[図3-1]  [図2-3]  [図3-2]

 もう1枚、別の絵葉書を紹介します[図4-1]。こちらの消印は1926年(日付判読不能)でしたが、何より、角地33-35番地の建物に大きな変化が生じていることに注目です。3階バルコニーにあった「ル・ファール」の社名表示は「Paul S..ais & C」と変更され、1階アーケードに掲げられていた「クレディ・リヨネ」の銀行名やメダイヨンもなくなっています。更に上層階には「Change(両替)」「Banque (銀行)」と書かれた文字看板が大きく掲げられています。街を闊歩している紳士方に眼を留めれば、頭上にはカンカン帽が見えますから、時代が進んできている様子が濃厚です。

[図4-1]

 ここで舗道の角に立つ街灯の形状に再び着目し、先に挙げた2点の絵葉書と比較して見ましょう[図4-2]。図4の絵葉書の街灯も、先端の形や支柱中ほどに二つの灯火が見えることなど、図3の絵葉書の街灯に同一です。図4の絵葉書の時代がやや下ると仮定すると、1913年の書込みのある図2のほうが1912年の消印付の図3の絵葉書よりも撮影時期は早くなるわけで、この二つの写真が撮影された間のどこかの時点で街灯(の上部だけか)が取り替えられたと考えられます。

[図4-2]

 更にもう一点を見ていただきます[図5-1]。この絵葉書の画面下の余白には、使用者のペンで「21.8.03」、即ち1903年8月21日と日付が添えられていますが、何よりホル・コンティネンタルの三角屋根が見えますので、ホテル火災が発生した1901年10月14日より前の撮影になるはずです。武石のブリュッセル到着は1902年2月でしたから、明らかに彼が目にする前の街並みであり、本稿の目的から外れます。とは言うものの、ロダンのカリアティード二組が共に見える点で時代を偲ぶ貴重な証言でもありますので、敢えて拡大図版を掲げます[図5-2]。脚立に乗って作業する人まで確認でき、活気ある街の息遣いが極めてよく伝わります。こちらの街灯に目を凝らして見ると、図2の絵葉書と同様です。また、全体写真に戻ってみると、大通りの中央分離帯には高さのある街灯が設置されていたことにも気づかされます。図2の絵葉書ではそれらが見えませんが、撤去時期について考察し始めると本旨から逸脱していくので、深入りは止めておきます。

[図5-1]

[図5-2]

 この拡大図で確認したいのは寧ろ別のことで、銀行側にアーケードが設置されているものの、その向こうに連なるホテル側には日除けしかない事実です。前回紹介した絵葉書では、両方とも日除けでした[図6-1、6-2]。それ故、これら2点の絵葉書写真の撮影時期について、前後関係が判ります。

[図6-1]

[図6-2]

 ここまで紹介してきた絵葉書以外にも、街の中にロダンのカリアティードが小さく写っているブリュッセルの絵葉書はまだあったのですが、なかなか武石の滞在時期に重なると言えるものは見つかりません。諦め半分で探索を続ける中、ようやく、その可能性が濃厚なものに辿り着きました[図7-1]。ロダンのカリアティードの姿も、かろうじて確認できます[図7-2]。

[図7-1]   [図7-2]       [図7-3]

 この絵葉書には消印があり、やや不鮮明ながら1905年(もしくは1903年か)と読めそうなのです。ここは読者の方々にも一緒に判断していただきたく、図版を添えます[図7-3]。中段の日付は8月31日と確認できますが、下段にある年を示す二桁数字はどうでしょうか。「05」(あるいは「03」)と読めませんか。1905年8月31日であるとしても、撮影年はそれ以降にはなりません。この日付なら、武石滞在中になります。また絵葉書の画面中央、大通りの向こうには三角屋根のないホテル・コンティネンタルの姿がありますから、1901年10月14日の大火災以前に撮影時期が遡ることはありません。勿論、火災以降で武石がブリュッセルに到着する1902年2月5日までの約4か月の間に撮影されていた可能性は排除できません。それ故、この写真に見える街の様子を、武石が目にしていた「はず」とまでは断言できません。ですが、見ていた「かもしれない」確率はかなり高いのではないでしょうか。[次稿に続く]

(館長 桐原 浩)

【追記】
 2回目の稿と本稿でも紹介した図2の絵葉書ですが、貴重な情報を寄せていただきました。
 ①自動車の製造年:本稿の図2-2に写り込んでいる車ですが、ベルギーの自動車会社ミネルヴァが1908年に発表した車種である可能性が高そうです。ネットで調べてみると、この頃には米国の自動車会社でも似たタイプの車を販売していたようなのですが、ミネルヴァ社の1908年型以上に特徴の似た車はありませんでした。だとすると、絵葉書の撮影年は1908年以前には遡れません。絵葉書の街の様子は1908-1912年頃と限定できそうです。武石が日本に帰国したのは1909年8月5日。2か月くらい前にはベルギーを発っているでしょうから、滞在時期と重なる年月はさほど長くありません。とはいえ、武石の姿をこの絵葉書の中に重ねられる可能性は残ります。
https://www.uniquecarsandparts.com/lost_marques_minerva.htm
 ②画面下「ND. Phot.」の表記:2回目の稿で、「no date」で撮影年不詳の意、もしくは撮影者か権利者のイニシャルか、といったことを記しましたが、絵葉書の出版社名を示すものでした。パリの写真家兄弟、エティエンヌ・ニュールデイン[1832–1918]とルイ=アントワーヌ・ニュールデイン[1846–1914]の二人が興したハガキ出版会社のクレジット表記だったのです。
https://www.doaks.org/research/library-archives/dumbarton-oaks-archives/collections/ephemera/names/nd-phot

 上記の二つの情報は、筑波大学の寺門臨太郎先生がわざわざお教えくださいました。ここに記して感謝申し上げます。