現在の燕市に生まれた日本画家・横山操(1920~1973)は、火山の噴火や都市の建設現場、故郷新潟の風景などを巨大な画面に描き、現代に相応しい日本画表現を探求しました。今回は当館所蔵の全68点を一挙公開し、その創作の軌跡を振り返ります。
(うち36点は『中央公論』表紙絵 1966年1月号~1968年12月号)
《母子》1958年 | 《ふるさと》1966年 |
西蒲原郡吉田村(現在の燕市)に生まれる。最初洋画を志すが転向し、川端画学校で日本画を学ぶ。復員後、青龍展に出品を続け、青龍賞・奨励賞を受賞。豪放な作風で多くの意欲作・話題作を発表し、戦後の日本画壇を代表する一人となる。青龍社脱退後は無所属で活躍、多摩美術大学の教授もつとめた。水墨画に新しい日本画の可能性を求めた。
操の真骨頂といえる1950~60年代の大画面作品を多数展示します。旅先で遭遇した桜島の大噴火を描いた《炎々桜島》(幅454cm)は青龍展で最高の青龍賞を受賞。《十勝岳》は巨大な画面サイズ(幅639cm)を批判され、青龍社脱退のきっかけとなりました。五輪開催に向け、東京の景観が変貌していく様子を捉えた《高速四号線》(幅480cm)には、操のジャーナリスティックな視点が感じられます。
《炎々桜島》 |
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《十勝岳》 1962年 |
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《高速四号線》 1964年 |
青龍社脱退後、個展やグループ展で作品発表を行う中で、操は幼い頃故郷新潟で見た風景や水墨画の伝統的表現に関心を抱くようになります。銀箔で吹雪を描いた《雪峡》や水墨による《親不知夜雨》には、それまでの作品にない寂寥感や叙情性が漂います。自らの原点を見つめ、新たな段階を探っていた操でしたが、1971年脳卒中で倒れて右半身不随となり、73年に53歳で急逝、その探求は途絶えることになります。
《雪峡》 |
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《親不知夜雨》 1970年 |
操は駆け出しの頃ポスターの仕事に携わり、復員後はネオン会社でデザインの仕事をした経験もあって、独特のデザイン感覚を発揮します。「実生活から遊離した富士山なんかに興味はない」と豪語しつつ、後年「赤富士」の連作に取り組むなど、日本画の装飾的表現への関心も示しました。今回は色紙大の小画面に描かれた月刊誌『中央公論』表紙絵全36点を展示し、豪放な側面とは異なる操のもう一つの顔にも焦点を当てます。
『中央公論』 1966年1月号 表紙絵 「富士山」 |
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《満月潮》 1968年 |
画像はすべて 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵
※画面上部の画像:横山操 《岳》 1959年
2023年04月11日(火) ~ 2023年06月18日(日)
9:00~17:00
券売は16:30まで
4/17(月)、24(月)、 5/8(月)、15(月)、22(月)、29(月)、 6/5(月)、12(月)
一般430円(340円)
大学・高校生200円(160円)
※中学生以下無料
※( )内は有料20名以上の団体料金
※大学・高校生は学生証を提示してください
※障害者手帳をお持ちの方は免除になります。手帳をご提示下さい
新潟県立近代美術館
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