学芸員コラム⑨ 改めて小山正太郎を思う。

2022年04月01日

 令和4年(2022)は、長岡出身、そして日本近代洋画の先駆者である小山正太郎が、明治15年(1882)、東洋学藝雑誌に「書ハ美術ナラス」の論を5、6、7月号の3回に分けて掲載し、この小山の論を受けて岡倉天心が同誌に、やはり8、9、12月号の3回に分けて「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」と反論した事象から、140年になります。

 洋画を学んでいた小山が「書ハ美術ナラス」を何故、唱えたのか、それを理解するためには、当時の状況がどのようであったか見定め、どのような書を含めた美術の状況の中からこの論が発せられたのか知りたい。そして、この郷里の先達の人物像を知っていただき、そこからこの論争を考えるために、この論争から120年後(六十干支二巡り)の平成14年(2002)、『小山正太郎と「書ハ美術ナラス」の時代』展を開催しましたが、それからも、もう20年も経ってしまいました。岡倉との論争として、さて、この時代、小山の言う様に美術でなかったのか、岡倉の言う様に美術でなくはなかったのでしょうか。今でもこんなことを考えていることは古くさいのかもしれませんが、ずっと気になって、関連書物があれば読み、他の人の考えに教えを請い、自分なりに「これだ!」と言いきってみたいのですが、まだまだです。

 ところで、「書ハ美術ナラス」と言った小山の書を見ると、いやいや筆が立っています。筆使いが上手いのです。やはり小山も育ちは、長岡藩医の子、崇徳館で四書を学び、耕道義塾で漢学を学ぶなど素養があり、幕末から続く、筆記具としては毛筆しかない時代に育っており、きちんと毛筆に慣れていたと思われます。

 だからこそ、洋画を志して、後の鉛筆画でも「たんだ一本の線」と言って、一本の線で的確に形象を捉えることに繋がっていったと考えられます。やはり〝書画〟を背負って生きていた時代の人だったと思います。ちなみに、鉛筆も明治以降、本格的に日本に入ってきたもので、国内で製造を目指して製法の研究、開発がされ、庶民の手に届く値段になるのは、明治30年代中頃まで待たなければなりませんでした。

 小山は、やはりここでも岡倉天心とやり合い、小山は鉛筆画を、岡倉は毛筆画を普通教育でどちらが指導に相応しいか採用を争います。小山は近代国家の建設に欠かせぬ教育の機器として、鉛筆画を主張しましたが、毛筆画を主張した岡倉の考えが採用されることになってしまいました。現在の鉛筆の普及(PCばかりで筆記具で書く人は少なくなりましたが、)と毛筆の衰退を思えば、隔世の感があります。それは、油絵の描写にも当てはまります。 明治中期に黒田清輝らによって外光派と言われる油絵がもたらされ、流行していくと、小山らの油画は、暗い、古くさいと言われて、旧派とも称されてしまいます。いやいや、時代の変遷がそうなのであって、そりゃあ、先に産まれていれば古いでしょうし、その絵画の時代性を考えて言わなければ、時代の表現の仕方が違うのであって、単純に今という時間軸で同列に比べてしまってはおかしなことになってしまいます。小山等が明治初めから学んだのは、西欧画のいかに正確にものを写し取るか、表していくか、という、感興だけで描いたものではなく、「日本」という新国家建設のための国家有用な美術、それは明治のスローガン、富国強兵・殖産興業にまさに報いようとした姿だからです。

 いろいろと思うところはありますが、郷土の先駆者が小山で良かった、日本の西欧画移入だけでなく、美術と書とのことを結びつけて考えてみる契機を与えてくれているということで、小山が新潟県人で本当にありがたいと思っています。そしてそういうことからも当館所蔵、小山の《仙台の桜》を見ると、感慨一入です。「書ハ美術ナラス」発表の前年、明治14年(1881)に制作された作品だからです。この年3月1日から6月末日まで開催された第二回内国勧業博覧会を見て感じた、何事もなく、書と画とが一緒に陳列された状況に違和感を感じ、25歳の若き小山が美術界に一石を投じた(反応は岡倉だけ、書の世界も無視)、何を考え、思いながら、描いた作品なのかと想像を巡らせられるからです。

 その小山の生まれたのが、安政4年1月21日(西暦1857年2月15日)。亡くなったのが大正5年(1916)1月7日。今年は生誕165年、亡くなってからも106年になります。「書ハ美術ナラス」からも140年と、小山を巡る美術や書への想いが、いろいろと脳裡を駆け巡ります。やはり小山正太郎は、大きな郷土の先達です。                                   (専門学芸員 松矢 国憲)

《仙台の桜》明治14年(1881)

《一樹花十字詩図》明治41年(1908)