2022年03月07日
当館にはセザンヌの《水浴》という寄託作品があります。縦14センチ、横19センチという絵葉書を二枚ならべたほどの小さな油彩画ですが、ミニサイズにも拘わらず、作品の中には豊かな物語が紡がれています。
この作品では、作者のセザンヌが生まれ故郷のプロヴァンス地方で、少年時代から親しんでいた水浴が主題となっています。みずみずしい緑が、眩しいぐらいの輝きを放っています。印象派が登場した1870年代半ばという時期に描かれ、色彩の鮮やかさに勢いが感じられます。そして内容を子細に見ていくと、ここに描かれているのは、どうも単純な川遊びではなさそうです。
画面の手前では、裸体の男性が三人、思い思いの姿勢で表されています。左側の男性は、自らの身体を誇示するかのように片腕を上げるポーズをとって一歩前に踏み出しています。中央の男性は横臥して両膝を立て、西洋の神話における「河の神」と思われるポーズをとっており、その身体は後ろに倒れています。そして右側の男性は、樹木の陰に身を潜ませて、手を上に伸ばしています。その視線の先には、対岸の裸体の女性たちがいます。三人の男性の動勢は、左の人物から右の人物に向かって、前進する/後退する/停止するという三つの動きであると要約できそうです。一見対照的でバラバラですが、三人の身体に右(女性側)に傾く斜めの平行線がある点で、女性への共通の関心が窺えます。人物だけでなく、樹木の幹も右に大きく傾いています。
一方、女性たちはどうでしょうか。左端の女性は、男性の存在に気付いたのか、手をあげるようなジェスチャーをしています。中央の女性は白い布を巻きつけ、おそらくこちら向きに立っています。右側の女性は手で身体を隠しながら立ち去ろうとしているようです。左から右へ、水から上がって木立の奥へ、という滑らかな動きが感じられます。
樹木の幹を中心にして、画面は此岸と彼岸でほぼ二分されています。男性側が力強い姿で、行動や欲望がはっきりと描かれているのに対して、女性の姿は小さく、消え入りそうに儚く描かれています。30代後半の画家の心の中で繰り広げられる女性に対する葛藤の跡が読み取れるように思われます。
セザンヌは若いころから最晩年にいたるまで、繰り返し水浴図に取り組みました。数多ある水浴図の中でも、当館寄託作品はモチーフの間にドラマを予感させる点でユニークなものといえます。画中の樹木の幹から「蛇のような」枝が伸びていることに注目し、この作品を聖書に出てくるアダムとエヴァの原罪と結びつけて解釈する興味深い研究も存在しています。果たしてセザンヌの真意はどこにあるのでしょう。美術館を訪れた際には、是非この小さな作品を覗き込んでみてください。セザンヌという芸術家が生涯追い求めた重要なテーマを読み解く糸口が、他にもまだ見つかるかも知れません。*3月21日までコレクション展示室「1920年代の美術」にて展示中。 (専門学芸員 平石昌子)
【参考文献】
-Mary Louise Krumrine, Paul Cézanne: The Bathers, Exh. cat. Basel: Kunstmuseum Basel, 1989
-John Rewald, The Paintings of Paul Cézanne: A Catalogue Raisonné, 2 Volumes, Harry Abrams, New York, 1996, no. 251