学芸員コラム② 宮田脩平氏を偲ぶ。

2021年09月02日

HPトピックス「この1点」は8月から「学芸員コラム」に変わりました。

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 宮田脩平*氏が令和2年11月4日にお亡くなりになりました。享年87歳でした。二代宮田藍堂の次男として生まれ、お兄さんは故・宮田宏平氏、弟さんが宮田亮平氏です。
故・宮田宏平氏は三代宮田藍堂を襲名した工芸家であり、宮田亮平氏も東京藝術大学学長、文化庁長官を歴任、イルカをモティーフにした鍛金作品《シュプリンゲン》シリーズで工芸家として知られています。
 宏平氏、脩平氏、亮平氏ともに東京藝術大学工芸科で学んでおり、本来であれば、脩平氏も工芸家になるはずでした。事実、高校時代には蝋型鋳金分野で人間国宝になった佐々木象堂に傾倒し、作品製作の様子を実見するため象堂宅を訪ねています。また、昭和30(1955)年には、藝大在学中に日展に初入選、その翌年には卒業制作作品が文部省買上となっています。ところが昭和33(1958)年に東京藝術大学工芸専攻科を卒業後、訪日客用の観光バスのデザイン・コンペに応募したことで運命が劇的に動きはじめます。応募作品が特選を受賞し、それがきっかけとなり愛知機械工業株式会社(後に日産の傘下となる)からデザイン室長としてオファーされたのです。工芸家を目指していた脩平氏でしたが、戦中戦後の貧しい時代の経験から、このオファーを快諾し、工業デザイナーとしてスタートすることになります。以降、名古屋に転居して、同社でピックアップトラックのデザインを担当、海外渡航が困難だった時代において、弱冠20代で欧米の自動車工場の視察も行っています。
 その後、三重大学教育学部に転職、同学部デザイン研究室教授を勤め上げました。その間に藝大時代に培った鍛金の技術を用いたジュエリーデザインを始めます。脩平氏のジュエリーは宝石を用いない、金属の鍛造のみという素材を生かしたシンプルなものでしたが、素材のミニマルな美しさが抽出された飽きのこないデザインに仕上がっています。当館が所蔵しているのもこの時期の作品で、平成18(2006)年にご寄贈して頂きました。
 以降もインテリア、記念切手のデザイン、佐渡汽船のシンボルマーク及びカーフェリーやジェットフォイルの船体外装デザインなど、インダストリアル・デザインの分野で活躍する一方、ジュエリー・デザイナーとしても発表を続けました。おそらく、ジュエリー・デザインは脩平氏が唯一、工芸家に戻れる瞬間だったのかもしれません。
 さて、脩平氏が影響を受けた佐々木象堂ですが、大正2(1913)年に上京、新時代に相応しい工芸を目指す中で、大正7年(1918)年に金人会に参加します。この時のメンバーが後の近代工芸確立を目指した革新的工芸集団「无型(むけい)」の誕生となるわけですが、その中心人物が会のブレーンであった高村豊周でした。高村豊周らは新時代の工芸は産業工芸のプロトタイプとなるべきという想いをもっていました。しかし、第二次大戦後、時代はその役目を産業デザイナーに託したのでした。豊周は結果として、純粋芸術としての工芸作品の創出へと、舵を取っていくことになります。この選択が、高村豊周に人間国宝の地位をもたらすことになるのですが、これはまた別の話。そんなことを考えるにつれ、宮田脩平氏は、新時代の工芸を目指した若き日の高村豊周や佐々木象堂の夢の一端を、初めて実現した、数少ない工芸家だったと言って良いのかもしれません。あらためてご冥福をお祈りしたいと思います。 

(学芸課長 藤田裕彦)

本稿執筆にあたり、ご遺族から新たにご送付頂いた資料を参考とさせて頂きました。あらためて御礼申し上げます。 *戸籍上は「修平」でしたが作品サイン、作家名としては常に「脩平」を用いていましたので文中では「脩平」に統一しています。

(上)宮田脩平 トルソ(一対) 昭和50(1975)年 第15回クラフト展 2006年作者寄贈

 (下)宮田脩平 ブローチ、机、椅子 昭和50(1975)年「ジュエリーの今:変貌のオブジェ」(東京国立近代美術館)2006年作者寄贈