学芸員コラム⑲ 横山操の戦前作品―《隅田河岸》と《渡船場》

2023年04月26日

 新潟県を代表する日本画家、横山操(1920~1973)の没後50年を記念するコレクション展を開催しています。当館所蔵の操作品全68点に他館所蔵品の特別展示も交えた、充実の内容です。
 なかでも注目していただきたいのが、2009年に画家の郷里である新潟県燕市に一括寄贈された戦前の作品群です。当館と東京国立近代美術館で共同企画した「横山操展」(1999~2000年)の時点では、これらの作品が現存することは知られておらず、その頃刊行された画集でも戦前の代表作《渡船場》(1940年)が「焼失作品」として紹介されました。これら“幻”の作品群の現出によって、作家研究をめぐる状況が大きく変化したことになります。
 本展では、戦前の二つの展覧会出品作、《隅田河岸》と《渡船場》を並べて紹介しています。いずれも操が生活していた銀座木挽町から程近い隅田川の河岸を描いたもので、操はしばしばこの辺りに写生に出かけていたようです。
 《隅田河岸》(写真右)は従来、1939年の第2回新興美術院展の出品作と推定されてきましたが、美術雑誌『美術日本』6巻4号(1940年4月)に図版が掲載され、翌1940年春の第3回展の出品作と考えられます。同誌の展評(草嶋衛門「新興美術院第三回展」)では「近代的な感覚の描出に成功してゐる」と言及されています。操は、この第3回新興美術院展とほぼ同時期に開催された春の青龍展には落選しており、《隅田河岸》が日本画での展覧会初入選作になったと思われます。
 そして、同年秋の第12回青龍展に入選したのが、もう一点の《渡船場》(写真左)です。青龍社を主宰する川端龍子(1885~1966)から「これが君と、青龍社をつなぐ、渡し舟になってくれるといいね」と声をかけられたエピソードを、後年、画家自身が紹介しています(横山操「人間修業」『三彩』202号、1966年6月)。
 《渡船場》に描かれる独特な形状の小屋は、隅田川西岸の明石町と佃島とを結ぶ、いわゆる「佃の渡し」の川面に突き出た待合室です。作品には、灯台の地図記号に似た東京市紋章(現在の東京都紋章。当時、佃島渡船は東京市営だった)とともに「佃島」の文字も書かれています。東京都中央区のホームページに1962年(昭和37)頃撮影された佃の渡しの写真があり、操の《渡船場》と同じような小屋が見えるため、戦前から1964年の東京五輪開催の頃までは、この辺りの景観に大きな変化はなかったものと考えられます。
 さて、これら二点の作品には、点景として隅田川の対岸の景色が描き込まれています。《墨田河岸》でクレーンや煙突が立ち並ぶ辺りは、幕末に開設され発展を遂げてきた東京石川島造船所ではないでしょうか。また、《渡船場》に描かれる鉄橋は、1940年の「皇紀二千六百年」に向けて建設された「勝鬨橋」と思われます。今回展示している本画では、鉄橋の途中で画面が切れており、特定が難しいのですが、本画と同じく燕市教育委員会が所蔵する小下絵には、大型船舶の往来のため橋の一部が跳開する様子がはっきりと描かれているのです。勝鬨橋は1933年着工され、1940年6月に竣工したため、操は完成前後の姿を捉えたことになります。
 自らの生活圏内の身近な風景を題材に選びながら、そこに近代化を遂げていく大都市東京の姿を添えた《隅田河岸》と《渡船場》。戦後、日本の復興のシンボルとして溶鉱炉やダム、高速道路などの巨大な建造物を大画面に描き出すことになる横山操の、さりげない「伏線」のように思えてなりません。
(主任学芸員 長嶋圭哉)