学芸員コラム⑩ ポール=エリー・ランソン《収穫する7人の女性》を見た日

2022年07月04日

 当館の所蔵品で長く親しまれている1点に、ポール=エリー・ランソンの《収穫する7人の女性》があります。「親しむ」というのは大事なことで、この言葉を何の気なしに使うことがよくありますが、裏返していえば「見慣れる」ということでもあります。そうでない場合ももちろんありますが、同じ作品に接すれば接するほど、新鮮な眼差しを保つことが難しくなっていくことが多いのではないでしょうか。
 近年のことになりますが、思いがけず、ランソンの作品を「はじめて見る」ような感覚を私自身が経験し得た機会がありました。それは作品の技法と深い関係があります。この作品は、膠絵(にかわえ)という特殊な技法で描かれています。19世紀末にランソンをはじめ「ナビ派」の画家たちが多様な素材の絵画を意欲的に試みていた時期がありました。膠絵は油絵と違って画面に光を反射するような艶がなく、いわゆるマットな、光を吸収する落ち着いた印象の絵肌をしているのが特徴です。画布を基底材としているにも拘らず、漆喰の壁面に描いているかのような微粒子状のざらついた触覚を感じさせます。膠絵という技法や素材の性質については分かっていない面も多く、当館にとっては悩みの種となっています。
 この作品が収蔵された年、私はまだこの美術館にいなかったので直接見たわけではないのですが、海外の画廊を通じて購入が成立し、新潟まで輸送されてきた後に開梱してみると、かなり深刻な状態が画面に認められたそうです。カメラのフィルムケース(時代を感じますね)一つが一杯になるほどの粉状の顔料が剥落していたと。おそらく輸送中の振動による物理的負荷が原因の一つであり、それだけの量の絵具が落ちてしまったと考えられています。 
 以来、この作品の素材の繊細さが学芸課内の共通認識となり、コレクション展示をする際には収蔵庫から展示室まで細心の注意を払って移動させるというルールが厳守されました。それから30年有余がたちますが、幸いなことに顔料の剥落はそれ以上進行していないようです。しかし制作されてからすでに130年近くが経過しています。作品の素材がどのような変化を受けているかを把握するためには、肉眼で観察するだけでは十分ではありません。修復家に相談して、リニューアル休館中にランソンの科学的調査を行うことになりました。
 最大限の注意を要する作品でこれだけのサイズとなると、額装を解除するだけでも容易ではなく、美術専門作業員が4名必要でした。神経のすり減るようなその時の緊張感を思い出すと、今でも頭痛がしてくるほどです。紫外線写真、赤外線写真、実体顕微鏡による観察などが手際よくすすめられ、すべての調査が済んだ後に、逆の手順で再額装されました。その後修復家によって作成された調査結果は別の場所で詳細を紹介する予定ですが、全体として当館の膠絵の保存状態は比較的良好であることが分かりました。移動することで剥落の問題が生じる懸念は残るものの、現状は安定していることが分かり安堵しました。
 その作業に立ち会った日、はじめてアクリルがかかっていない状態でランソンの画面を見ることができました。朱色を主調とした色彩は、目を打つような鮮やかさではありませんが、静かに響いてくるような気品と透明感がありました。忘れられていたナビ派などと一部でいわれていたポール=エリー・ランソンが、長い眠りから目をさましたように感じられた特別な瞬間でした。
                            (専門学芸員 平石昌子)