2024年08月01日
大型連休が終わった5月7日から10日まで、能登半島地震の被災地に入り、文化財の救援活動に加わって来ました。私も1月1日の発生時には震度5強を観測した上越市で遭遇し、当地の津波を心配するとともに、長岡市は震度6弱と発表され、近代美術館に戻ろうとするも鉄道、北陸自動車道、国道8号等の交通が寸断され、戻れずに一夜を明かしました。そして、その際もテレビで放送される能登の被災、被害に、北信越地域でまた大きな災害が発生してしまい、何よりも人命の被害が小さく、そして、美術品も含め、文化財全てに対し、一つでも無事であってほしいと願うだけでした。
平成16年(2004)中越大地震で、被災した当館でもあり、地震だけでなく、信濃川が近くにあることで水害の心配も近年の豪雨で高まっており、災害での被災対応については他人事ではありません。こうした自然災害では自館での応急的処置、対応、そして将来の震災に対する対策を講じるばかりでなく、他館への救援活動が県施設として要求されると考えています。それは、地域が小さく限定されれば、小さい地域で救援活動が済むことかもしれませんが、地震が大きく、広域の被災になればなるほど、全国の広域で協力支援していかなければ、被災地だけでは、そこに住んでいる人全てが被災者なのですから、被災しながらも、救援活動をしなければならない被災者の方々もおられるはずであり、人手はいくらあっても足らない、というところと思います。
今回、文化庁の災害救援活動を受託している独立行政法人国立文化財機構文化財防災センターの要請を受け、それを構成する機関の一つである全国美術館会議の構成館の職員として救援活動に加わってきた次第です。
ただ、私は美術館員として資料の取り扱い方についての技術は備えているものの、保存修復を専門としているわけではないので、保存修復は今後、専門の方々にお任せするとして、まずは被災した資料の状況確認と、これ以上、汚損や損壊が進まないように緊急避難の活動に協力してきました。
平成23年(2011)の東日本大震災の際の救援活動では、津波によって流され、汚損、損壊した作品の洗浄作業や乾燥作業に協力させていただきましたが、今回は、まだ避難されている方もおられた奥能登地域の能登町柳田公民館に設置できた能登半島地震被災文化財等救援委員会現地本部を拠点に、輪島市や中能登町の被災現場に向かい、被災現場に入り、そこの状況確認と資料の移動という作業を、緊張感を持って、進めてきました。雨の中、崩れた寺院の屋根に登り、空いている隙間から懐中電灯で中を照らしながら、資料がどこにあるか探していた時には、何も発見できなかったのですが、その周囲の瓦礫をくまなく探すと、探していたものとは違いましたが、仏像を3躯発見することができ、救出してきました。そうしたことからこの近くに探している仏像もあるのではないかと考えられ、今後、瓦礫を除去してこの周辺を探すと発見できるのではないかと、探索や作業の方向を一歩進めることもできました。
4日間の短い時間の協力ではありましたが、少しでもこうした活動が早く進めば、被災地の早い復興に、ちょっとだけお役に立てるのではないかとあらためて今回参加して思ったのでした。
まだまだ、救援活動は続いていますが、当館も惜しみなく協力をしていきたいと考えています。
と、記してこのコラムをホームページにアップしようとしていた6月半ばに再要請があり、7月16日から19日にかけて再度、輪島市、能登町での救援活動に参加してきました。帰着後のまとめ(7月22日現在)では、210件の要請に対し、64件の完了ということで、まだまだ先の長い活動と思われるとともに、今回の活動中にも、追加でのレスキュー依頼もあり、救援要請もこれで全てではなく、増加し続ける状況でした。
前回もそうでしたが、倒壊している建物の中に入るには、レスキュー活動の参加者が2次被害にあってはならないので、「支保工」による支えが必要な現場も多く、建築関係の団体に作業してもらい、それからの活動ということになります。しかし、その「支保工」の作業をどの程度しなければならないか、被害状況の調査をまずしてからの隊員の救援活動の安全確保のための支保工の作業に入るので、その時間と手間がかかり、どうしても直ぐには救援活動に入れない状況の被災現場ばかりです。こうしたことが、一気に進まない理由の一つでもあります。
毎週毎週、全国各地の参加者が活動を行っています。大事な文化財等ですので、具体的情報を詳らかにできませんが、能登地震の復興の中で、地道な活動が行われ続けていることを、少しでも皆様に知っていただければと思います。(学芸企画課長 松矢国憲)
道路脇には至るところに倒壊した住宅(5月)支保工の入った社寺(5月)倒壊した住宅(7月)