2023年01月01日
新潟県立近代美術館のコレクション展「堺時雄 ピクトリアリズムへの招待」(2023年1月17日~4月2日)について、まず、皆さんは堺時雄の「芸術」写真を知っていますか?
堺時雄(1889-1991)は、日本写真史の黎明期から芸術写真を追い続けた写真家であり、彼の作品は東京都写真美術館にも所蔵されています。堺の父は金井弥一といい、明治12(1879)年に東京九段坂にあった鈴木写真館に入門、鹿鳴館などに出入りして、当時の上流階級の撮影を行っていました。明治19(1886)年に帰郷し、明治21(1888)年に新潟市内に金井写真館を創業しました。その後、明治30(1897)年に現・中央区中大畑町に移転し、現在も明治期に建てられたまま金井文化財館として、そっくり残っていますので、ご存じの方も多いでしょう。
この建物はもともと、キリスト女学校の校舎で弥一が購入、たまたま新潟裁判所の改築のために訪れていた、文部省の建築技師であった中島泉次郎氏に設計、監督を依頼したもので、バロック建築を意識した、現在から眺めてみてもモダンな建物であることがわかります。自由党の創始者であった板垣退助もこの場所で弥一によって写真を撮影、その写真を気に入った板垣は弥一に700枚もの発注をしたようです。以降、弥一はパリ万国博覧会(1900)やセントルイス万国博覧会(1904)に出品するなど、写真家として活躍を続けました。当時の小中学校に配布された明治天皇や大正天皇の肖像写真も金井写真館で複製されたものでした。従って、新潟では金井写真館はかなり有名な存在でした。
堺時雄は金井弥一の三男で明治31(1886)年に生まれました。写真館に出入りしていた時雄は新潟中学校(現・新潟高校)の恩師の勧めもあり、東京美術学校臨時写真科を目指すようになります。
明治維新後の日本では文明開化の象徴として写真館が多数誕生しました。しかし、急速な写真技術の進歩は、日本的な師弟制では後進の育成が追いつかなくなり、明治後期から大正にかけて、写真技術を系統的に指導する、より高度な写真教育の必要性が叫ばれるようになります。その動きの中で、大正4(1915)年東京美術学校に臨時写真科が新設され、大正12(1923)年には正式に写真科として改称されました。学科には写真技術だけではなく、化学、物理学、数学、解剖学などの他、図案、絵画、美学といった美術系の科目も含まれており、芸術写真に向かう道筋も開かれていました。
しかし、美術から写真技術重視へと方針が転換、大正14(1925)年に芝浦に新設された東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)に写真科は移管されることになり、東京美術学校としては6回の卒業生を送り出しただけとなります。この数少ない卒業生の一人が堺時雄でした。なお、名字が金井ではなく堺なのは、中学校三年(現・高校)の時に、大伯母イチの堺家が絶えてしまうため養子になったのが理由です。
大正8(1919)東京美術学校臨時写真科に晴れて入学。同級生の多くは写真館出身だったと言われています。ここで堺は多数の芸術写真を制作。その一つが在学中に発表した《天真流露(てんしんりゅうろ)》で、本作は大正11(1922)年3月平和記念東京博覧会で入賞し、卒業前の二学期には担当の森教授より同校助手に請われる程でしたが、大学に籠もるのも気が進まず、金井写真館のこともあり、助手依頼を固辞、卒業後は新潟に戻り父の写真館に勤めます。
この後、写真芸術に対して常に貪欲だった堺時雄は、岐阜県の飛行第二大隊偵察隊に1年間入隊し、航空写真を撮影したり、芸術写真を追求する「洋々社」を設立するなど、八面六臂の活躍をみせます。昭和3(1928)年1月主婦之友社に入社し広告写真を手がけるようになり、女優では夏川静枝、入江たか子、水谷八重子、声楽家の松平里子、関屋敏子、佐藤美子らを撮影、写真というメディアへの需要が高くなるにつれ、毎夜終電車での帰宅となりました。多忙な写真撮影による眼の酷使の結果、失明の恐れが発覚、主婦之友社を退職し、一旦は都内で写真スタジオを経営しましたが、昭和10(1935)年、父・弥一の急逝とともに金井写真館本店を継ぐことになります。しかし、芸術写真への想いは強く、同年、新興写真を目指す芦屋カメラクラブによる全国規模の公募展、「アシヤ写真サロン1935」展にも入選を果たしています。
東京美術学校時代から昭和16(1941)年まで、堺時雄は一貫して、写真を芸術作品の地位までに高めようとするピクトリアリズム写真から、写真に手を加えない芸術写真、ストレートフォト作品まで、写真の可能性を追求した作品を次々と発表し続けました。
しかし、昭和26(1951)年に復員すると、写真館としての活動は続けましたが、何故か芸術写真に戻ることはありませんでした。復員した堺が数年後に東京芸術大学を訪れた時、莫大な数量の卒業制作などを避難させることができず、約2万点が失われたことに対する、悔やんでも悔やみきれない想いや、自身の門下生が、小柄で弱々しかったにも関わらず応召され、結局は非業の最期を遂げたことに端を発した、戦争への怒りなどを吐露していますが、芸術写真をやめた、その理由については全くわかっていません。
さらに、遺された作品も紙焼きになったものは少なく、その多くはガラス乾板の状態であったため、堺時雄の芸術写真は「郷土が生んだ美の先達25人展」(新潟県美術博物館、1992)、「7人の新潟の写真家たち」(新潟県立万代島美術館、2005)で、紙焼きになったその一部を展示した以外、その全貌はほとんど紹介されず、芸術写真家としての功績はあまり知られてないようです。
さて、時代の移り変わりとともに高度な技術をより簡単に、より安価で用いることができるようになりました。その1つがスキャニングであり、ガラス乾板を保存している県立万代島美術館では堺時雄のガラス乾板を少しずつデジタル化してきました。今回そのデジタル化したデータを元に、色調補正を行い映像として紹介できるようになりました。尚、ガラス乾板は状態の悪いものも多く、必ずしも堺時雄の意図通りではないことをご理解頂きながら、この機会に堺時雄の芸術写真に触れて頂ければと思います。
最後に堺時雄作品およびガラス乾板をご寄贈頂きました堺秀二氏に御礼を申し上げるとともに、ガラス乾板のデジタル化の作業を地道に続けた故・高晟埈氏(元・県立万代島美術館主任学芸員)の思い出も特記して、本稿を終えることといたします。
新潟県立近代美術館 学芸課長 藤田裕彦
※参考文献 堺時雄/堺柳女『明治の写真師』新潟明治大正研究会 昭和63年