2021年02月01日
トピックスでは「この1点」と題して、当館のコレクションについて、「作品解説会」以上、「美術鑑賞講座」未満の少しディープなお話を紹介していきます。
現在開催中の「ルネサンスの版画」では、当館が所蔵するアルブレヒト・デューラーの版画作品とともに、ヤーコポ・デ・バルバリの大作《ヴェネツィア鳥瞰図》を展示しています。デューラーをはじめ、スター的知名度を誇る大芸術家が何人も名を連ねるルネサンス期にあって、ヤーコポ・デ・バルバリは決して広く知られる存在ではないかもしれません。「ヤーコプ親方よりももっと立派な画家たちが、当地には大勢いる」と友人に宛てた手紙に書いたのは、ヴェネツィア訪問中のデューラーその人でした(前川誠郎『デューラー 人と作品』講談社、1990年)。しかし作家の名前を知らずとも、この《ヴェネツィア鳥瞰図》は、木版画の歴史を語る上で決して欠かすことの出来ないメルクマールと言える作品の一つです。
当館が所蔵するのは、1500年に初版が発行された数十年後の第3版にあたります。2016年に開催した企画展「ボストン美術館 ヴェネツィア展 魅惑の都市の500年」では、ボストン美術館が所蔵する初版と当館所蔵の第3版を同時に展示する機会に恵まれました。版を重ねた分だけ版木が摩耗するのは当然で、やはり初版にくらべると第3版には線のシャープさに欠けるところがあったのは事実です。しかし、それ以上に興味深かったのは、初版から第2版、第2版から第3版へと版を重ねる度に加えられたことが知られる、いくつかの修正箇所の存在でした。
画面上部中央の「MD」はローマ数字で「1500」を意味し、初版では1500年当時のヴェネツィアの様子が、建物一軒一軒にいたるまで詳細に描写されています。その再現度は目を見張るものがあり、例えば、1496年に完成したばかりのコッレオーニ騎馬像がすでに描き込まれているなど、当時の地誌を伝える記録資料としても重要な役割を果たしています。初版から14年後に発行された第2版でも記述の正確さを追求する姿勢は保たれ、「MD」の年記は削除、サン・マルコ広場の鐘楼が1514年までに新築された天使を頂く尖塔に修正されていることが知られています。しかし、16世紀後半の第3版では、少し事情が変わったのか、第2版での修正を取り消し、初版に戻そうとする努力が払われています。当館の作品(第3版)にも「MD」ははっきりと描かれ、サン・マルコ広場の鐘楼も1500年当時の前時代の様式へと逆戻りしています。これだけをみると初版と第3版の違いを見極めるのは困難ですが、第2版から第3版への修正の過程で、鐘楼の天使のみが削除されずに残されてしまったため、ここが初版と第3版を見分けるわかりやすいポイントになっています。
第2版までは、たしかに正確な描写であることが重視されていました。しかし、第3版ではその修正内容から、それが方針転換し、正確な描写よりも初版の内容が優先されていたことがわかります。これは、第3版が出版される16世紀後半には、描写の正確さといった技術的な面以上に、その高い芸術性に本作の価値が見出されていたからではないでしょうか。《ヴェネツィア鳥瞰図》が、木版画の歴史を語る上で決して欠かすことの出来ないメルクマールであるとする所以です。さらに言うならば、版画が芸術作品として審美的水準を達成していく過程で、初版から第3版へといたる道のりは見逃せません。その意味で、第3版制作の背景を探ることには、まだまだ研究の余地があるのではないかと考えています。
美術学芸員 松本奈穂子