この1点① 安井曾太郎《読書》の不思議

2020年05月11日

「この1点」はじめました。

     トピックスでは「この1点」と題して、当館のコレクションについて、「作品解説会」以上、「美術鑑賞講座」未満の少しディープなお話を紹介していきます。

安井曾太郎《読書》の不思議

 安井曾太郎は梅原龍三郎と並ぶ、日本を代表する洋画家の1人です。当館では安井の円熟期にあたる一水会時代の代表作《読書》(1942)が収蔵されています。
 本作には時間を確定する要素は描かれてはいません。とは言え、何となく予定のない昼下がりを、心穏やかに読書を楽しんでいる、そんな作品に仕上がっています。
 さて、本作について、一度、対象を離れて、キャンバスの表面を眺めてみると不思議なことに気がつきます。まず画面右端下です。背景の黄色い色彩が青い椅子の肘掛けの表面を越えて塗られているのです。そこに気がつくと、モデルの着衣まで背景の黄色がはみ出している部分があることも分かるでしょう。主に背景は、下塗りとして最初キャンバス全体に塗られるものですが、モデルが描かれたあとに塗られたことが分かります。
 次に左半分です。こちらでは、黄色い背景と青い椅子には不自然さはありません。しかし、モデルの着衣と椅子に着目すれば、服の上から椅子の青色がはみ出していることがわかります。これをどのように解釈すれば良いのでしょうか。                       ヒントはキャンバスの上と左のそれぞれ端にあります。画像では分かりにくいのですが、茶色い穴が数センチ単位で等間隔に空いていて、それに沿って折り目の跡を見ることができます。 
 もうお分かりですね。つまり、この上部と左側面はもともとキャンバスの上側面と左側面という、本来であれば絵の具が塗られない部分であったのです。安井が本作に着手して、しばらくすると、どうしても上と左側に空間が欲しくなった。その解決策がキャンバスを木枠から外して、本来であれば側面と裏面にまわりこむ部分を表面にすることで、描く部分を増やすということでした。画面の左部分をあらためて注目してください。今描かれている青い椅子と黄色い背景のの後ろに、最初に描かれていた今よりも若干、小さい椅子がうっすらと残っているのに気がつくでしょう。
 
安井曾太郎は本作の制作にあたり、このような手記を残しています。
 「去年はずっと風景ばかり描いていたせいか、久しぶりにモデルを使うと、非情に興味もあり、また、何だかあらためて人物画を描くような気がして、仲々難しい気もする。読書している平凡な構図であるが、その自然なポーズが、非情に美しいと思って描き始めた。本を読んでいる運動、姿勢と言った造形美が、少しの無理もなく美しくにじみ出ているので、それを充分に表現し度(た)く、苦心している。モデルは、青、青、黒、鼠、藍といった相当強い色の縦縞の洋服を着ているので、その縞も生かし度(た)く、とすると、コスチュームが主になってその人物の大きさや、型なども逃しがちになるので、その点非常に困っている。背景も人物ではいつも黒を使うが、今のところはモデルとの関係上、明るい色を使っている。白い壁の調子でゆこうと思っているが、どう変わるか解らない」※原文ママ

 本作は白い背景で通常のキャンバスの大きさで描かれる筈でした。左側を2センチほど短くした白い背景の本作を想像してみて下さい。折り目正しい女性がきわめて端正な姿で読書をしている光景だったことに気がつくでしょう。
 もともとは読書をしている姿に、造形美が美しくにじみ出ている様子を描き出すために、本作に臨んだ安井でしたが、その出来は予想に反して、あまりに規律正しく、凜とした姿に仕上がってしまったのかもしれません。
 最終的に安井は、背景色がモデルや椅子からはみ出したり、椅子の造形的なバランスを犠牲にしても、のんびりとした、ゆったりと流れる時間の中で、読書をしている女性の、意識が揺蕩(たゆた)うような、かけがえのない瞬間を表現することを選んだとも言えるでしょう。

学芸課長・藤田裕彦

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