学芸員コラム㉗ ヨーロッパにて 彫刻家・武石弘三郎が出会った人と作品

2023年11月02日

 新潟県出身の彫刻家・武石弘三郎は、1902(明治35)~1909(明治42)年にわたるベルギー留学中、美術学校で研鑽を積む傍ら、国内外の美術を見て回り見識を深めます。一方、ヨーロッパ各地からベルギーを訪れていた渡欧者たちとも交流を重ね、充実した留学期間を過ごしました。本コラムでは、武石が日本から遠く離れたヨーロッパで出会った人と作品について、紹介していきたいと思います。

 ベルギーに到着したばかりの頃、武石はブリュッセル市内の植物園を散策しています(1)。目的は庭園内に建立されている、師ジュリアン・ディレンスやコンスタンタン・ムーニエによる彫刻群と思われます。また市内では他にもサンカントネール公園内で開催されていたベルギー美術の展覧会を見学。ディレンス、ムーニエのほかポール・ド・ヴィーニュ、オーギュスト・ロダンの作品に接し、特に150点に及ぶムーニエ作品に接することができた感動を綴っています(2)。
1904年はパリに旅行。サロン見学のほか、ルーヴル美術館やリュクサンブール美術館にも足を伸ばしています。ルーヴルではミケランジェロやドナテッロ、ミロのヴィーナスなどを鑑賞。「ルーブルを見しのみにても驚く許り、伊太利旅行は如何に小生をして驚かせるならん」と、言葉にならない感動を伝え、また当初からイタリア旅行を計画していた様子もうかがえます(3)。
 
 1905年リエージュ万国博覧会が開催されると、武石は同地に一時期滞在。日本の出品協会より依頼されていた審査員の仕事を行いながら、博覧会を満喫します。ボヴリー公園内の美術館では、後に弟子入りを果たすエジッド・ロンボーの彫刻作品等を鑑賞しています(2)。武石は万博の会場で、イタリア旅行の道中に立ち寄った沼田一雅、下村観山、岡精一の一行に遭遇し、大いに歓喜します。後日ブリュッセルにて再会した3人を、武石はアントワーヌ・ヴィールツ美術館に案内します(4)。孤高に生き、死や狂気を奇抜かつ官能的に描いたヴィールツは、評伝が青少年向けの雑誌に紹介される程、明治後期頃の日本では注目を浴びた作家でした(5)。

 1907年にはパリから旅行に来ていた画家の藤島武二と湯浅一郎が、武石のもとを訪ねます。野口駿尾も加わり、4人はベルギー・オランダ旅行に出立します。ゲントにてファン・エイク兄弟やルーベンスの作品を鑑賞、ワーテルロー古戦場散策を経て、オランダ各地を巡り、気負いない旅を楽しみます(6)。このとき武石は湯浅から、太田喜二郎がベルギーに来るから世話をしてくれないか、と頼まれます(7)。武石が太田の弟子入りの介添えとしてゲントのエミール・クラウスを訪ねるのは翌年のことです。

 留学最後の1909年、武石は野口と念願のイタリア旅行に出発します。このとき武石は、かつてともにベルギー・オランダ旅行を楽しんだ藤島とローマで再会します。この再会を記念して藤島が武石に送った肖像画は現在「ベルギーと日本展」で展示中です。藤島と別れた後、武石と野口はナポリ、ポンペイ、フィレンツェ、ボローニャ、パドヴァ、ヴェネツィアとイタリア各地を訪れます(1)。特にヴェネツィアには2週間ほど滞在し、美しい街景、水路を行き交うゴンドラを夢見心地に楽しみました(8)。
 イタリア旅行中、かつてのベルギー公使・加藤恒忠に送った絵葉書には、「天下ノ美術カローマトフロランスニアル様ニ思ワレ候/ベデカモ旅行毛布モ御蔭様ニテ御礼申上候/特ニベデカデ見ルベキ要所ニハ赤キ線ヲ御引キ奉好都合ニ御座候……」とあり(9)、憧れのイタリア美術に感極まった様子が伝わります。加藤が武石に用意していたベデカとは、ドイツの出版社が発行していた「ベデカー旅行案内書」のことで、こういった案内書を手掛かりに観光地を巡っていた当時の海外旅行の様子がうかがえます。

 同年6月、武石はベルギーを立ち、8月日本に帰国します。当時の留学は、まさに命を賭して行くようなものでした。現在も残る資料を見ていくと、武石が出会うもの全てに胸躍らせた様子が伝わってきます。留学を通して得たこれらの “出会い”は、武石の糧となり、帰国後の作品制作や人との交流につながっていきました。


(1) 佐々木嘉朗『彫塑家・武石弘三郎ノート』1985年(私家版)
(2) 「通信」『東京美術学校交友会月報』4巻3号 1905年12月4日
(3) 武石弘三郎「白耳義便り」『美術新報』3巻14号1904年10月5日
(4) 岡精一「伊太利の旅[一]」『みづゑ』第64号 1910年7月3日
(5) 山田真規子「戦前の日本における近代ベルギー美術の受容」『ベルギーと日本』図録 2003年
(6) 「通信」『東京美術学校交友会月報』6巻4号 1907(明治40)年12月23日 
(7) 武石弘三郎「指を眞黒に日に焦げさすまで勉強」『美術』1巻7号、1917年5月
(8) 武石弘三郎「月下のヴェニス」『美術新報』11巻10号1912年8月1日
(9) 武石弘三郎絵葉書(加藤恒忠[拓川]関連資料より) 正岡子規研究所蔵

 

前列左より 武石弘三郎、野口駿尾、後列左より藤島武二、湯浅一郎 1907年 註(1)より。

ワーテルロー古戦場にて 右側の3人(左から野口、藤島、湯浅) 1907年 註(1)より。