2023年09月14日
企画展「ベルギーと日本」が今週末から始まります[会期9月16日-11月12日]。開催に合わせて、本展の主題に少しばかり触れる話題を、横から提供したいと思います。
新潟県出身の彫刻家武石弘三郎[1877-1963]は、ベルギー留学を志し、首都ブリュッセルの王立美術学校に学びます。東京美術学校を卒業した24歳の若者が憧れの異国に到着したのは、1902(明治35)年2月5日。再び日本の土を踏んだのが1909(明治42)年8月5日でしたから、故国を離れて学ぶこと足掛け8年に及んだことになります[本展図録の詳細な「戦前の日本における近代ベルギー美術の受容年表」をご覧ください]。
武石が滞在していた20世紀初頭のブリュッセルでは、彫刻家オーギュスト・ロダン[1840-1917]が制作した建築装飾の仕事が街の中に見られました。ロダンと言えば、1900年のパリ万博での大回顧展もあり、巨匠として名声を確立していましたが、この大家にして、いや、革新的な作家だったからこそ、世に認められるまでは時間がかかりました。1870年を過ぎ30代になっても公的デビューを飾れないロダンは、普仏戦争後で混乱するパリを離れ、稼ぎを求めてブリュッセルに出向き、建築を飾る作品制作に携わっていたのです。その時に関係した作品の幾つかが、街には残されていたのでした。
19世紀後半のブリュッセルは、市の人口が大きく膨らんでいく中、市街を整理していきました。市内中央を南北に流れるセンヌ河は人口拡大により汚染され、衛生環境もひどかったため、当時の市長ジュール・アンスパック[1829-1879]は、大胆にも河を埋め立て、そこを新たな通りとする決断をします。1867年に着手され1871年に完成した「中央大通り」は、その後、前市長の功績を記念して、彼の名を戴くことになります。
新設の大通りの両側には、新築の建物が次々と立ち並んでいくのですが、目抜き通りに相応しい外観を備えるよう規制もあったようです。そのため、建築物を彫刻で飾る仕事が彫刻家にもたらされ、彫刻家だけでなく助手や見習いたちも生活の糧を得られたわけです。ロダンや当時の彫刻家の関わった装飾彫刻の幾つかは今でも現存していて、19世紀終わり頃の街並みの壮麗さを偲ばせます。ですが、残念ながら建物の改築により外されたり、失われたりした作品もありました。それらに関連するものが、当館のエントランスを飾っている《カリアティードとアトラント》[図1]なのです。[図1]
このロダンの作品は、中央の女性像と両脇の男性像の3体で構成されていますが、実は当時もう一対同じものが制作されていました。これら2対が、アンスパック大通りとグレトリー街とが交差する角地の、北西側と南西側にあった二つの建物を飾っていたのです。番地で言えば、アンスパック大通り33-35番と37-39番で、これら二つの建物の3階バルコニーを下から支えるように3体の人物像が設置されていました。像が制作されたのは1874年頃で、恐らくその後、建物に設置されたと想定されます。
当館が作品を購入する際に提供された写真資料があり、建物に付随していた当時の様子がわかります[図2]。撮影年不詳だったのですが、1997年の展覧会カタログ『青銅時代に向けて ベルギーのロダン』[exh.cat., Vers l’âge d’airain, Rodin en Belgique, Éditions Musée Rodin, 1997.]の中に同じ写真が掲載され、建物から作品を取り外す際の1928年のものと記されています。
[図2]
このアンスパック大通り37-39番の建物は、竣工されてから50年以上経過した1928年に売却され、新たな所有者は取り壊して近代的なものに建て替えることを計画しました。ですが、その際にはロダン作品としての重要性が認識されていたので、外して保存することが画策されます。この案件については、1928年9月26日付の地元紙で報じられ、取り外すために腕から解体され始めた写真が掲載されていたそうです。
先の写真を拡大してみると、3体とも像に腕がありません[図3]。この資料写真を最初に見た際、像に腕がないのは屋外で長く風雨に晒されて破損したためと思い込んでいましたが、そうではなかったのです。
[図3]
よく見ると、3階バルコニーには葉巻の銘柄の宣伝があり、2階には美容院が入り、1階は煙草などの小売店が入っているようです。果たして、これら店舗がこの建物で商売を始めたのは、いつ頃からだったのでしょう。1928年となると、武石がベルギーを去ってから20年になろうとする時期です。武石の留学当時とは、店子が入れ替わっている可能性はあるでしょう。
さて、先の資料のほかに、ロダンの作品があったブリュッセルの街並みを伝えるイメージはないのでしょうか。武石が見ていたかもしれない、初期ロダンの作品を擁する世紀転換期のブリュッセルの街の姿を探しに行きたいと思います。[次稿に続く]
(館長 桐原 浩)