2022年11月01日
数年前、NHKの撮影クルーが、横山操の作品を撮影するために来館しました。「小特集 横山操」と題し、たった5点とはいえ大型の作品を中心に展示した空間で、彼らは、じっくりと時間をかけて丁寧に操の作品を撮影していきました。その時の、操の《雪峡》(1963年)という作品をめぐる担当者との会話が印象に残っています。
「吹雪ですよ、これは。」「えっ、そうなんですか!僕はてっきり抽象画だとばかり思っていました。」
地元・新潟県で生まれ育った筆者から見れば、その絵はどこから見ても、一目で「吹雪」でした。具体的な実感を伴って、共感できる作品です。おそらく、雪国で育った者ならば、この絵を一瞬で理解できるはず。しかし、吹雪をまともに体験したことのない人は、それとは理解できないのです。当たり前のことではありますが、「あっ、そうなんだな。」と妙に得心が行ったものでした。
この時代の画壇は、日本画でも油彩画でも抽象画が全盛の時代でした。これに抗って、操は1959年に《MADO(窓)》の制作を試みています。これも、一見抽象画に見えるけれど、れっきとした具象絵画です。《雪峡》もこれに連なる作品であると筆者は捉えています。
これらの作品を主に構成しているのは、銀箔と黒絵具です。銀箔は白絵具よりも強い光を放ち、物の具体的な形を超えて、私たちの心に直接働きかけるようです。操は、この黒と銀を好んで用いました。色彩と素材の持つ力を正しく理解して、操はこの色と素材を選んだと思われます。
現在、コレクション展示室1で開催している展覧会「雪国をえがく」で展示紹介している富岡惣一郎も、素材にこだわりぬいた画家です。
豪雪地・高田で生まれ育ち、雪の辛さと美しさとを知り尽くしていた富岡は、自身の原点である雪の世界を描こうとしていました。1956年、富岡は新制作展に白と黒の作品を2点出品しますが、その白色は、2か月後に黄変し、亀裂が入り、ついには剥落してしまったといいます。「雪の作品をつくるためには、この問題を解決しなければ駄目だ」⑴と考えた富岡は、「藤田嗣治さんの画面のような白が欲しい」⑴と絵具会社に相談し、研究が始まりました。2年かけて実験を繰り返しても結果は芳しくなく、専門家から「不可能である」と宣言されてしまいますが、その後富岡は、長時間寝かせた絵具の缶の中に、求め続けた白絵具を思いがけず発見し、理想的な白絵具を手中に収めたのでした。
新潟県出身の美術評論家・本間正義は、このトミオカホワイトについて、次のように評しています。「その白はただ単なる白ではない。重く垂れこめる北国の空の色が雪の上に投影されて、雪は暗みを帯びている。雪国生まれの富岡さんにとって、その白はつらい冬の生活体験に深くつらなってくるもので、微妙なニュアンスを含んでいる。しかも新雪にはあるやわらかなぬめりがある。トミオカホワイトの暗みと、エナメル質を思わせるつややかな感じは、この体験からきているに違いない」⑵。
もちろん、ここでいう「暗み」は、白絵具だけの効果ではなく、富岡がそのトミオカホワイトの上に塗り込み拭き取ったアイボリーブラックとの相乗効果によるものです。また、いわゆるトミオカホワイトの世界の完成には、絵具だけでなく道具であるナイフの完成も待たなければならないのですが、この絵具の素材的功績が大きいことは間違いないでしょう。
富岡が築き上げた世界も「具体的な表現であるのだが、それが画面の上に作られると、白黒の抽象的で象徴的な味わいを打ち出してくる」⑶ものであり、「抽象も具象も超越した無心の世界」⑶であるといわれます。
日本画・洋画の違いこそあれ、直接会ったことはなかったと思われる同時代の二人の新潟県出身の画家―横山操と富岡惣一郎―の作風が、雪という題材と、それを表す素材へのこだわりと、作品の抽象性という三つの面で、こんな風に共通点があるのを発見すると、とても興味深く感じられます。
(専門学芸員 宮下 東子)
⑴ 1982年4月17日 新潟日報「創作・トミオカホワイトの世界4」
⑵ 1984年10月26日 新潟日報「富岡惣一郎の白の世界〈上〉」/本間正義
⑶ 1984年10月28日 新潟日報「富岡惣一郎の白の世界〈下〉」/本間正義